Hiraku’s diary

特にコンセプトはございません。ご笑覧ください。

僕のバスケ人生の始まり

僕は中1の時、初めて本格的にバスケと出会った。

 

中学入学時に、この学校の98%以上の生徒が部活動に入っている、というデータに基づいてくるタイプの洗脳を受けたのがきっかけだ。小6の終わり頃の僕は、銀縁眼鏡の小太りで、それこそバスケットボールのような体型の少年だった。インドカレー屋さんなどに行けば飾ってあるゾウの置物のようなシルエットをしていた。僕は割と寡黙な方で、1人で思考を巡らせたりポケモンシールを丁寧に集めたりする、おとなしい男の子だった。

 

そんな僕が部活に入るとなると、見てくれからやはり文化部だろうかとも思ったが、いかんせん僕は音痴で裏拍が取れないレベルのノレない男だったし、人の絵を描くにしても、耳から顔を描いてしまうような独特な感性を持っていたし、字は破天荒すぎるあまりに小2の時点で習字教室から破門された過去さえ持った、あまりにもアーティスティックすぎる地雷系少年だった。そのため、過去の思考もろともデブな自分を脱却することを目標に運動部に入ることを余儀なくされたのであった。

 

運動部とはいえさまざまな部活があった。ソフトテニス、サッカー、バレー、野球、水泳、柔道、剣道。その全てに見学に行くわけにもいかず、とりあえず体育館の中か外かを決めようと考えた。僕は、部活に関する先生の話を聞きながら1つのことに気がついた。体育館は1つしかなく、体育館競技が複数あると言うことは、交代で使うほかない、つまり、部活動の時間は割と短くて済むのではないだろうか。テニス場、野球場など特定のスポーツに向けた施設のある競技は長々と練習させられる可能性がある。私は痩せたいだけなのでそんなガチでやるつもりはない。つまり、屋内球技が1番いい、そう考えたのだ。

 

新中1、新入部員としては最悪な心構えだが、体育館へと急いで足を運び、中を覗いた。バレーとバスケが練習をしていたように記憶している。バレーは女子、バスケは男女が半分ずつ使っていた。これも見逃さなかった。バレーは確実に一面を必要とするが、バスケはこの手の練習があることもあるのか。しかもバスケ部ってなんかカッコいいし、これ1番都合いいな。

 

体育館の神から天罰が落ちても申し分ない邪悪な少年である。

 

このようにして僕はバスケを選んだ。

味のしないガム

これは私の、恐怖体験である。閲覧注意。

 

セミの声が響き渡る街路樹を横目に、灼熱のアスファルトの上を自転車で走っていた。

 

汗が滴り落ちる。しかしすぐに乾いていく。中2の夏、考えていたのは強いパンチの打ち方と少し気になる子の言動についてだけだった。そんな毎日。しかし、強烈に記憶に刻まれた一言がある。

 

――――このガム、味がしねぇな。

 

その日、私は部活に急いでいた。猛烈に暑い体育館の中は、着替えるだけで汗だくだ。持参したアクエリアスを飲みながら、友人とバッシュの穴に紐を通す。すぐにメニューが始まり、昼過ぎに練習は終わった。

 

部活後はいつも、グッタリとしていた。

体力には自信がある方だったが、ペース配分が苦手なのでいつも過度に疲れてしまう。

その日もそうで、友人とゆっくり自転車を漕ぎながら帰った。途中、公園に人影があるのを見つけた。誰だろうと思い、目を凝らすと、その友人と別の友人の兄だった。

 

その人はよくその友達の家に遊びに行ったときに遭遇していた。いつもズボンのポケットに両手を突っ込んで、そのポケットの中でやたらと手を動かしたり、髪を自分で切ったりしてしまう、かなり変わった人だった。

 

声をかけるような間柄ではなかったので素通りしようとしたが、友人が悪意に満ちた口元で観察しようと言ってきたので一緒にしばらく見ることにした。

 

覗いていると、その人は徐に草むらにのしのしと入って行った。そして急に大きな声を出した。

 

「コーラガムみっけ!」

 

私たちはもう彼に釘付けだった。いやただのガムじゃなくて、コーラガムってちゃんという必要あるか?そして落ちてるコーラガムを見つけてそんな興奮するか?これからどうするんだ?私たちは恐怖を超えた好奇心で自転車を停め、彼に近づいた。

 

その人はその「コーラガム」を拾おうとしていた。私はてっきり、ビニールに入った小さなものを想像していたが、違った。生のやつだった。おそらく誰かが吐き捨てたのだろう。取るのに手こずっている。べったりと、草に張り付いている。

 

いや、それ取ってどうするんですか?と笑って尋ねた。そしてそのガムをよく見ようと近づいて、最も恐ろしいことに気がついた。

 

そのガムは、どう見てもカマキリの卵だった。

 

気色が悪いと思った次の瞬間、彼はそれをむしりとり、口の中に放った。そして咀嚼をしながら、こう言い放った。

 

「このガム、味がしねぇな。」

 

僕は抜けそうになる腰を携えながら、必死に自転車の方に走った。友達も、這うようにして逃げてきた。恐怖だった。その日彼は僕の想像を超えた。その日以来、その彼と会うことはなかった。

フィリピンの思い出

僕はまだ世界を知らない。

 

事実、小学5年生から熊本で県外に住んだ経験もなければ、教育関係以外の仕事に就いたこともない。その割に毎日感じている幸福度は高く現状維持を望む気持ちもかなり強い。

 

そして、まだ知らない、とは言うものの人生ももう1クォーターが終わりを迎えようとしている。日本で大学を出ると、残酷なことに少なくとも22歳まで学生だったことを意味する。そして瞬く間に25歳を迎え、人生100年時代の1/4が終わるのだ。

 

現状、今はもう8月も下旬で夏休みも終わる。9月からは多くのイベントに忙殺され、11月が終われば12月。私の25歳の誕生日が来るのだ。

 

自分の知っている世界を広げたい、同じ想いを強く抱いていた19歳の夏を、ふと思い出す。

 

その日僕は赤いパンツを大量に購入していた。目前に控えた1ヶ月のフィリピン留学。その頃から気合いは下着に表れるタイプだった。同じ下着を履き続けることは、同じティッシュで何度も鼻をかむような気持ちになってしまう。

 

下着の山を、超えていけ。

 

そう言い聞かせながら僕は、真っ赤なボクサーパンツにほおを、ぐっと引き寄せた。

 

熊本空港に向かった。案外、すんなりと出国した。飛行機の中で、空にいる間上を見続ける。高いところにいるときに、それよりもっと高いところを見ることができるのは、高いところにいる人の特権だと思う。いつでも超えられるハードルを、人は意外と越えようとはしないものだ。

 

クラーク空港という空港に着いた。体を伸ばしながら、思い切り息を吸い込んだ。鼻腔を通り、肺へと空気が流れ込んだ。ワクワクした。

 

しかし、次の日僕は42度くらいの高熱におかされた。環境の変化に意外とナイーブな、僕の可愛い一面である。

 

それからというもの、フィリピンの街中を歩き回った。しつこくタトゥーを勧めてくる女性、素手で焼いたとうもろこしを売りつけてくるおっさん、タバコを一本だけ売ろうとしてくる男性、スタイルがとても良いが明らかに胸にボールを入れている男性。ちょっと怖い思いもしたが、賑やかで素敵な場所だった。

 

僕は、気がつくとAqua Timezの「千の夜をこえて」を熱唱していた。うるさ過ぎる周りに対抗したかったのかもしれない。周りの人々は、ドン引きしていた。平気で初対面の私の尻を触ってくるような図々しい彼らの唖然とした顔は、今思い出しても腹が立つ。

 

やはり故郷は多ければ多いほど良いと思う。我々のあっという間に瞬く間に終わってしまう人生の中で、知らずに死ぬには勿体無いくらい素敵な場所が、世界にはたくさんあることを、是非ともこの赤パンを振りかざしながら、伝えたい。

顔?性格?

もし付き合うなら、顔で選ぶ?性格で選ぶ?

 

2021年7月吉日。この議論に私は終止符を打ちたい。

 

結論は、「顔」である。

 

これを言うと、非難が殺到する。

「いやそんなこと言ったら顔に自信がない人が可哀想だろ!」「顔なんか見てたら慣れるし美人も3日で飽きると言うじゃないか!」「そもそも顔デカイやつがしゃしゃるな」「アゴ長!家帰ってゴミでも食って寝てろ!!」このような誹謗中傷さえ受けてしまう。

 

しかし、よく考えて欲しい。付き合っている時に相手が寂しがり屋だったとする。自分はそんなにデートを誘うタイプではなかったが、相手の様子を見て声をかけるようになった。とか、いつもはかなり強気な態度を取るのに恋人の前ではあまり喋らない人がいるとか、前まで気にもしてなかったのに急に嫉妬や不安が押し寄せたり。人間は慣れるのが早く、日常に異常が突如現れるなんてことは多々あるのだ。

 

詳しくはないが、これは脳の働きによるものかもしれない。悲しみや憎しみが薄れるよう感情さえも忘れていったり、嬉しいと言う感情も繰り返すごとに慣れ、普通になっていく。だから行動や態度も毎日変化していく。

 

変化するが、改善しなくてはならない。アドラーによると、人間関係は全ての悩みの根源だ。恋愛に限らず、お互いのことを理解してお互い行動を改めていくべきである。まぁ口で言うのは簡単だが、なかなかうまくはいかないものであることも事実ではある。

 

ただ、複雑でめんどくさいことほど、人生では重要だと思う。私たちに過去なんかない。目的のため、目の前の喜怒哀楽は全て手段なのだ。大切だった人にもらった手紙だってただの紙だ。燃やせば暖をとる材料になるのだ。

 

話を戻そう。私が言いたいのは、「意外と性格や行動パターンは変わるもの」であるということだ。相手の好意と自分の好意の強さには必ずギャップが生じ、それに折り合いをつけるために人は日々、変わる。

 

つまり、変化する性質である「性格や行動パターン」に憧れを抱くよりも、相当な年月が経たないと変化しない「顔」で選ぶ方が合理的かつ高確率で一定の好意を長期間維持できるのだ。

 

ただしこれは建設的に考えた結果である。

私は、中身で人を判断します。

 

私は、外見なんかで人を判断しない、イケている人です。

夏休み

夏休みと聞くとみんなは何を思い浮かべるだろうか。海、BBQ、キャンプ、そんなところだろうか。

 

僕は、高校2年生の時に見た、小さな打ち上げ花火を思い出す。

 

せわしくセミが鳴いていた。僕はセミの声が好きだ。賑やかだから。よく泣く赤ちゃんも元気があってとても好きだ。そんなことを考えて自転車を漕いでいると急に夕立が降りだし、セミたちは一斉に鳴きやみ散り散りになった。僕も雨宿りしようと近くのバス停の屋根の下に入った。

 

雨はなかなか止まなかった。僕は自転車から降りバス停のベンチに腰掛けた。憂鬱な気持ちで空を見上げていると、ポケットが振動した。スマートフォンにLINEの通知が来ていた。

 

「今日も2個アイス食べちゃった。」

 

当時、僕は片想いをしていた。初めて本気で人を好きになった。当時はよくわかっていなかったが、今思えば確かにそうだ。例えば、廊下ですれ違った時うまく挨拶ができなかったり、その人が聞いていると言っていた音楽を調べてまで自分で聞いてみたり、可愛らしい笑顔を見るだけでどきりとしていたものだ。

 

返信を考えた。アイス2個とか太るよ、打ちかけて辞めた。俺もアイス食べたよって言えば盛り上がるかな、けど俺がアイス食ったとか興味絶対ないよな、くだらないが真剣だった。

 

気がつくと、セミの声がまた聞こえた。とっくに雨は止んでいた。結果、差し障りのない返事をして携帯を閉じて、自転車にまたがった。帰る途中にコンビニに寄って、返事でその子が教えてくれたアイスを、1人で食べた。いつか2人で食べたい、そう思った。

 

家に帰った。いつも通り母親が山盛りの麻婆豆腐を用意してくれていた。テレビを見ながら食べていたら、またLINEの通知。誰だろうかと覗き込むと、その子からだった。僕はロック画面に表示されたその内容を見て、持っていたスプーンを落としてしまった。すぐに連絡をしたいと思ったが、ご飯が残っていたので急いで口へ放りこんだ。

 

ごちそうさまでした、ごめんお皿は後で洗う、ちょっと、友達がいま大変でさ

 

その子はその日、当時付き合っていた彼氏と別れたことを1番に僕に教えてくれた。

 

僕はその子を慰めようとか、そんな想いに至れるほど余裕のある人ではなかった。ずっと言いたかった気持ちを、今すぐ伝えたいと思った。

 

通話開始のボタンを押した。しかし、着信音が鳴り響く時間に冷静さを取りもどし、恥ずかしくなった。こんな急にかけて出るわけがないと思った。引き返そうとキャンセルのボタンを押そうとした時、もしもし、と小さい声が聞こえた。その子は電話に出てくれた。

 

頭が真っ白になりながらも、我に返りまずは話を聞こうと思った。どうやら振られたらしい。声に元気はなかった。すぐに話を変えて、笑い話をした。その子は笑う代わりに、ありがとうと言った。いいよ、そんな、それよりさ、

 

僕は意外と、すんなり告白をすることができた。

 

その子はわかりやすく動揺した。いや今別れたんですけど、え、何、しかも電話で?このような事を言われ、自分がなかなか大胆な事をしている事に気がついた。しかし、想いは本物だった。だから、迷いはなかった。とりあえず明日の花火大会で会おうと言う話になり、電話を切った。部屋が静かになった。いつもは苦手な静かさがその日だけは、心地よかった。

人生ゲームは人生の縮図である

学校で席替えをするとき、なぜ1番前になるリスクがあると分かっていてもワクワクして楽しい気持ちになるのか。それは、くじを引いて机を動かすときに、自分の席という居場所があることを確認できるからだ。

 

大学生になると、席替えは無くなる。

固定の席はもはや必要なく、個人個人の資質や思想に合わせて授業を組み立てる。

たまたま同じ想いや似たような目的を持った仲間たちと出会う。彼らと隣に座り、講義を受け、放課後はまた別の仲間と活動やアルバイトを行う。

 

僕は大学生の時、バスケットをしていた。ジャンケンで負けて副キャプテンになり、弱小チームなりに練習は楽しくするべきという意見を常に発信し続けた。広島にまで遠征に行って100点差で負けた時も、学生支援課の怠惰によりいつまで経っても部費が出ず自腹で備品を買った時も、楽しかった。環境のせいにしてはいけない。私たちの幸せは常に、私たちの中にある。

 

幸せとは何か考えない方がいいと以前ブログに書いたが、そこまで悲観的にならなくとも、幸せが比較的近くにあると感じる瞬間が最近多い。

 

人生ゲームを買った。すごろくを人生に準えた画期的なボードゲームだ。最初に5000ドルを貰い、車に乗ってスタートする。そしてスタート後すぐに職業が決まる。私はここが好きだ。将来の夢は何?と聞かれたときに、「〜になること」と答える人が多いが、それは違うと思う。

 

職業につくことがゴールの人生ゲームなんか、ルーレットを回す気力さえ起きないのではないだろうか?

 

とにかく、ゲームの中で私は政治家になった。しかし5ターンほどでその職業を失うイベントに遭遇し、見事フリーターになってしまった。買った家も隣の人に奪われ、財産を失った。ゲームの中でさえ、思い通りに生きるのは難しい。

 

話は変わるが、私は最近耳の奥に指を突っ込んだ。変な音がした。例えるなら、線香花火が終わる時の小さな破裂音。小さい頃から耳に指を突っ込んでヘラヘラする癖がある(目的は、何もない。)のだが、音がしたのは初めてだ。

 

するとプールの水に潜った時みたいに、音が聞こえにくくなった。とても怖い気持ちになったので耳鼻科に予約をした。しかし、あるあるだが病院に行く前に治った。良かった。

ライフラインを棄てた男

コロナは人の体だけではなく、心まで蝕んでしまう。

 

疲れた心と体を癒すのは、休日だ。私は休日になると、必ず外に出たくなる。休日に与えられた自由を、極限まで謳歌するためである。

 

家にいることももちろん選択の中の一つだ。家にいる時は、たとえばアイスをあえて外に出し、ドライヤーを少し当てて溶かす。変形し始めたらすぐに冷凍庫に戻す。するとどうだろう。またアイスは元通り凍るのだ。これを何度繰り返しても、アイスは凍って僕の目の前に現れる。この神秘的な、アイスがアイスであろうと抗うものの、ドライヤーの熱の前では儚く溶けてしまうその姿がとても愛おしい。このアイスのパーソナリティこそがアイスをアイスたらしめる。

 

アイスが美味しいのはアイスに砂糖が入っているからではない。いつかは溶けてしまうという欠点があるからだ。

 

俯瞰すると明らかに奇行だが、これと似た感性を持っている人は世の中に意外と多い。例えばミロのヴィーナス。かの有名な、黄金比の代表とされる古代ギリシアのモニュメントだ。

 

彼女には、両腕がない。しかし、これこそが世界中の人を魅了する要因の一つなのだ。こんなに美しい人の、腕がないからこそ、美しい。欠点があるからそこを想像で補うことで美を感じてしまうのだ。

 

そんな世界で生きている私たちの中に、ついに美しさを追求し、ライフラインを棄てるという大きな欠点を背負おうと思った男がいる。東京で1人、毎日なぜ生きていけているのか不思議なくらい生活力の低い、最近調子のいいダンサーである。

 

たびたびこのブログに登場する中々の逸材であるが、彼はついに、ガスと電気と水道を、棄てた。彼は、生きていく上で必要と言われるこの三つを棄てるという欠点を持つことをあえて選んだのだ。

 

しかも彼の家は、ベッドとキッチンが繋がっている。食欲と睡眠欲を、同時に満たしたかったのだろうか。僕はさすがにその光景を目の当たりにした時には、いよいよ人間辞めたのか、と目を見張った次第である。

 

彼は以上のような、東京に住んでいるとは関係のない、「拘らなさすぎる性格」に命を奪われようとしている。僕は彼とたびたび連絡をしている。声を聞くと、少し胸が熱くなる。なんで生きてられるのか。正直、宇宙ステーションの野口さんと電話しているくらいの感覚だ。よく生きていられるな、と心から尊敬の意を表するとともに、彼の亀のようなあゆみの成長を、これからも見守りたいと心から思う。