Hiraku’s diary

特にコンセプトはございません。ご笑覧ください。

幸せとは何か考えない方が良い

幸せとは何かを考えさせることがあった。

それはとある1人の投稿。

 

詳しくは話せないが要約すると、自分も身近な人も自分の避けられない運命によって不幸になるかもしれないと言った内容。

絶望を感じていると言う投稿だった。

 

私はそれを見て、世に蔓延る、強制される幸せの形のようなものに疑問を感じた。みんなが幸せだと思い込んでいることは果たして本当に幸せなのか?

 

まず前提として、一人一人幸福感を感じるタイミングは違う。過程を楽しむ派の人もいれば結論で楽しむ人もいるし、過去で楽しむ人もいれば現在や場合によっては未来に向けて楽しむ人もいる。それは人それぞれあっていいと思う。

 

その中で、私が今回結論として述べたいことは、幸せを定義することはできないし、するべきではないということだ。

 

その人が思う幸せと自分が思う幸せには必ず埋められない溝があって、違う2人が同じタイミングで幸せを感じること自体が奇跡なのだ。日々刺激を受け、変わり続ける私たちが、他人の幸せはもちろん、自分の幸せも定義することなんかできないはずだ。それを闇雲に探ったり決めつけてしまったりすると、今のその相手との関係が壊れてしまうなんてことになりかねない。それこそ幸せから遠のいてしまう。

 

だから、幸せとは何かを定義するのではなく、今あるものや手に入れたものに対し幸せを感じることが重要なのだ。相手が自分にないものや現在2人にないものを幸せと定義するような人なら、その相手はそこにたどり着けないリスクを理解できていない。

 

豊かな日本では手に入れられないものの方が少ない。本当、私たちは傲慢だ。私たちは知らず知らずのうちに手の中にない幸せを願うことで、不幸になってしまう可能性を自分で産出してしまっている。もう、十分我々は幸せなのではないか?深く考えさせられた。

 

考えもまとまらず乱文となってしまい申し訳ない。