Hiraku’s diary

特にコンセプトはございません。ご笑覧ください。

塩辛

塩辛が好きな人はいるだろうか。

ちなみに私は好きでよくお酒のつまみとして買ったりご飯に乗っけて食べたりもする。

あの独特の生臭さが苦手な人もいるだろう。

でも、一度食べると、なんだか強烈にインパクトに残り、ふとした瞬間に思い出したり他の人が食べている物を少し貰ったりしてしまう経験はないだろうか。

 

塩辛以外にも、ゴッホの絵を見たときだったり、変な匂いを嗅いでしまったときだったり、かなり昔にハマっていた音楽をふと耳にした時だったり。別に自分から出会おうとは思わないがふと出会うと一種のノスタルジックを感じてしまう瞬間は誰しもあると思う。

記憶と知覚が結びつく瞬間、人は心が動くことがあると思う。

 

人の記憶は、短期間と長期間に分かれると言われる。短期間の記憶がいつしか長期間の記憶になり、それはまるで庭で偶然刈り取られなかった雑草のように、私たちの脳に根を張って生き続ける。

しかし雑草は雑草。目を向けようとしない限り目に入ってくる事はない。

存在すら忘れてしまうこともある。

それと知覚が突如として対峙した際、大きなエネルギーが発生すると考える。

 

先日とある映画で、過去は変えられないというが、実は未来が過去を変えることがある、という言葉に出会った。その映画では、小さい頃よく遊んでいた岩で祖母が頭を打ち亡くなった際に、その遊んで楽しかった思い出はただの楽しかった思い出としては受け入れられなくなる、といった内容だった。その岩は楽しみから悲しみの化身となって記憶にとどまる。

その逆ももちろんある。今この瞬間に負の感情で捉えている目の前の事実は、時間と共に変化する自らの知覚によって異なって捉えられる可能性がある。

 

僕はそれを今日体験した。そして、めっきり変わってしまった僕の過去を振り返ることすら許されない事態に陥ろうとしていることも知った。今を最優先にして生きることの重要性を痛感すると共に、今の感情や思いがどれだけ脆く、どれだけ儚いものかを考えずにはいられなくなった。皆さんは今の気持ちや感情が未来によって変えられるかも知れないことをどう思うだろうか。寂しいと思うだろうか。変わって欲しいと思うだろうか。いずれにせよ、今私たちは、すぐに壊れてしまう感情・環境の中で時間を過ごしているということを、少し考えてみるのもいいかもしれない。