Hiraku’s diary

特にコンセプトはございません。ご笑覧ください。

電話に出んわ、電車ともんじゃ

今年の4月に決めたことがいくつかある。

1つは、整理整頓をすることだ。

 

私は小さい頃、「上履き入れ」を瞬く間に失くしてしまう癖があった。何の疑いもなく素手で上履きを持って帰り、家で問い質される。なぜ上履きを袋に入れて持って行き、帰りは中身だけ持って帰ってくるのか。お前はセミの幼虫の生まれ変わりか。学校で羽化でもした気分なのか?こう言われ続けた。その頃から本当に物をよく失くしていた。

 

これまで失くしたものの中で最も印象的なものは、リュックだ。当時高校生だった私は、リュックを背負い図書館へと出かけた。小説を読むことは昔から好きだったが、食欲がオバケで小遣いの95%ほどが食費で消えていった。エンゲル係数系男子。欲に忠実な性格がモロに出ている。その結果、本を買う金がなかったのだ。

 

その日も私はとても感動をした。確か重松清の本だったと思うが、帰りの電車の中でも目に涙が浮かぶほど印象的な作品だった。そして家に帰りつき、ふと気がついた。リュックがない。見事、私は貴重品のみ携えてリュックをどこかに置いて帰ってきた。お気に入りのリュックだったばかりに、先祖のセミを強く恨んだ。

 

もう一つ、始めたことがある。それは、美の追求だ。無印で化粧水や乳液、洗顔料を買い揃え、ニベアのクリーム、ボタニストのヘアオイルさえ買った。なんと、脱毛サロンにも通い始めた。これで表面はバッチリである。バスケットボールを磨く時と同じ気持ちである。体全身を、くまなく手入れしていく。

 

しかし、表面だけでは美は追求できない。内面を磨くことも大切だ。性格的な部分は一旦置いておいて、痩せたいと思った。私の場合、筋肉量がそこそこ多いため、脂肪を減らすダイエットをしようと決意した。有酸素運動、食事制限がメインとなる。

 

それを決意した日から、なぜか母親が私に「お土産」を買うようになった。例えば、節約をしているときに限ってAmazonほしい物リストの商品が値下がりすることがある。それと似ている。痩せたいと思ったときには必ずと言っていいほど誘惑が訪れる。その日、母親は新しく熊本駅にオープンしたアミュプラザに行った。そこで、お土産と言ってシナモンロールというただのカロリー爆弾を買ってきてくれた。

 

とても嬉しい。甘いものは好物だ。しかし、一日1000キロカロリーくらいを目安にしている僕にとって、一つで1500キロカロリーを超えるその悪魔の実に手を出すことは、魂を売ることと何ら変わらなかった。やむを得ず食したが、罪悪感のあまりそのまま僕は家を飛び出した。ランニングを、する。僕は、今食べたカロリーを今から全て体から出す。

 

5分ほど走ったところだろうか。猛烈な吐き気に見舞われた。当たり前である。1500キロカロリーをなめてはいけない。爆弾を腹に抱えた状態で、いい大人が全力ダッシュをすると体は全力で悲鳴を上げるに決まっている。僕はまずい、人前で戻してしまうと思い、極力人のいない方に逃げ込んだ。そして無我夢中で走っていると、線路にたどり着いた。踏切まで遠い。この直線を走り続けるしかない。さながら走れメロスである。僕にとってのセリヌンティウスは、心にたった1人である。その人との約束を、自らの決意を無碍にすることなんか、到底出来やしなかった。

 

カッコ良く言ったが、結論を言うと線路の横で、人がいないタイミングで、今がチャンス、思い切り戻した。春の終わり。桜が散ってしまった寂しげな遊歩道の脇道で、僕は戻しながら、電車のそばのもんじゃに、思いを馳せていた。淡い思い出と共に、追求していた美とは程遠い自分の姿に、思わず涙してしまったのだった。

脱毛に行った感想

脱毛とは、星が降る夜と眩しい朝が繰り返すようなものじゃなく、大切な人に降りかかった雨に傘をさせることだと、思った。

 

皆さんは脱毛に対し、どのようなイメージを持っているだろうか?やってみたい?痛そう?男はしなくていい?そんなところだろうか。

 

私は脱毛に対し、世の中であまり口にすることはないものだと思っている。そもそも人の体に生えている毛に想いを馳せるタイミングなんて、片手で数えられるほどだ。毛が濃いから嫌いとかいう、見た目で人を判断する考えは毛虫くらい嫌いである。そんなことを言うつもりは、毛頭ない。この議論さえ、不毛と感じる。

 

こんなに、一回のブログで毛という文字が出てくることがあるだろうか。

 

さて、私はひょんなことから脱毛に興味を持った。それは、友人とサウナに行った時。友人の太ももに、ホッキョクグマがいた。白くて、綺麗だった。撫でてみようと思い、撫でたらびっくりされた。それはそうだ、ホッキョクグマではなく、それは彼の太ももだからだ。

 

何気なく聞いてみた。なんでそんなに足が綺麗なのか。すると彼は答えた。精神的に向上心のない奴は馬鹿だ。俺は脱毛に行って常に向上をしているのだ、美を追求しているのだ。彼の言葉は淡々と、しかし目はパキパキにキマッていた。僕は思わず目を逸らした。

 

そして自身の太ももに目をやった。もう、くまモンだった。がまだせ熊本!という感じの足だった。真っ黒だった。宇宙。そして彼の言葉が頭の中をこだまする。

 

「精神的に向上心のない奴は馬鹿だ。」

 

気がつくと、僕は脱毛サロンに向かうバスの中にいた。毛を脱するためだけに、バスに揺られる姿はまさに、ドナドナの歌詞に出てくる羊となんら変わらなかった。不思議と、焦りや恐怖はなかった。ただただ、足の毛を、レーザーで炙るだけである。そう、自分に言い聞かせた。

 

施工は20分で終わった。思ったよりも痛みはなく、あっという間に終わってしまった。何より、店員さんが美人すぎてそちらの方が意外だった。脱毛どころか、可愛さに脱帽、心の中はガッツポーズ。最高だった。

 

令和に入り、時代は大きく変わった。

共働きは当たり前。世の中全てが手のひらサイズ。男子も基本洋式便座では座って用を足すのが基本になった。

 

それらと同じように、男性が脱毛サロンに通うのも当たり前の時代だ。ぜひ、脱毛を検討されたい。

断食ダイエットの感想

僕の体重は73キロだ。

 

大学の入学式の日が人生で最も太っていた。

確か、79.9キロくらいだった。80キロを経験したことはない。理由は簡単だ。体重計のメモリが、80に乗ろうとした瞬間、体重計から飛び降りていたからだ。僕はこのように、現実をときに、闇に葬り去る癖がある。

 

しかし、世の中の評価はそう甘くはない。

自分が見て欲しくないものほど、興味を持たれるものだ。収入、暗い過去、失敗談。人間は本当に弱い。自分より不都合な事実を知ることでしか、自分の価値を感じることができない人が多い。

 

だが、これは決して悪いことではない。

見方を変えれば、自らの相対的な幸福や安定を求めているのだ。この気持ちに、なんの悪意も感じない。むしろ、純粋であるとさえ思える。

 

時を戻そう。73キロ。僕は標準の体重だ。

しかし、標準の中では高い方である。筋肉量とか、骨格の具合で誤差はあると思われるが、やはり少し気になるところだ。健康診断でそう思った。

 

僕は筋トレが嫌いである。筋肉をつけてなんになる、とさえ思う。もちろん、健康にはいいかもしれないが、トレーニングはその対価としてはキツすぎる。痛いのもキツいのも嫌いな僕にとっては、健康になれるとしてもトレーニングはややハードルが高い。そんな僕にぴったりのダイエット法を見つけた。「断食ダイエット」だ。

 

ルールは簡単。読んで字の如く断食をすれば良い。16時間、食事を行わないとのことだ。そして、寝る3時間前にはご飯を食べてはいけない。朝6時半にご飯を食べ、16時間後は22時30分。24時には基本寝るので、昼ごはんはもちろん、夜も食べられない。

 

断食ダイエット1日目。特に何も考えず過ごしていたが、昼にホッキョクグマの鳴き声のような音がした。そう、腹鳴りだ。我が腹が、鳴り出した。職員室はいつも人がいる。聞かれまいと必死に腹に力を入れる。しかし、ホッキョクグマの猛威は、留まることを知らない。地球温暖化の煽りを受け、氷山が溶けている。ホッキョクグマは常に危機に瀕している。彼らも立派な生き物だ。そんなことを、考えていた。

 

断食ダイエット2日目。普通に昼飯を食った。パンを4個食った。もうダメだ。

 

断食ダイエット3日目。今日は何を食べようかな、と考え出した時に自らの頬を引っ叩いた。バカタレ!昼飯を食わないから断食だ!!甘えるな!!!そんな時、母からLINEが来た。

 

「夜ご飯、モスバーガー買っといたよ。」

 

優しい母の言葉。痩せない自身の体。

 

モスバーガー、オーマイガー。

俺は千尋。

僕の身長は181センチだ。日本人の中ではそこそこ大きい方に分類される。この身長にも、良し悪しがある。

 

良いところは、170センチ以下の身長の人に対し「小さすぎて見失った」とイジることができる。また低身長の女子に、高いものをとってあげることができ、好感度が上がる。ざっとこんなところだ。

 

悪いところは、よく頭をぶつけてしまう。多くの車に、乗りにくい。足が大きいので好きな靴が履けない。料理をしてると、キッチンが低いので腰を痛める。

 

この身長を、私は部活に入るとき、活かせるスポーツがいいと思い、バスケ部に入った。そして下手の横好きで大学まで続けた。そこでジャンケンに負け副キャプテンになった年、とある事件が起きた。

 

それは福岡県に遠征に行った時のことだ。私は毎回、必ず車を出していた(可愛いマネージャーが隣に乗ってくれて凄くテンションが上がるし、後ろに乗ってる部員を無視すればギリ、デートとも言える最高の時間になるから。バスケ部に入って、一番伸ばしたのはシュート力や体力などではなく、鼻の下だったというラッキースケベお兄さんは僕のことで。というか、なぜ隣に可愛い人を乗せた時、あんなに運転中穏やかになれるだろう。いつもイライラする渋滞も、信号の不都合も全てワクワクに変わる。車の中を流れる音楽は、いつもよりワンテンポ速く感じたりなんかしてしまって。あー、淡い。淡いわぁ〜、淡いわぁ。)。

 

会場に着いた。早速バッシュの紐を結ぶ。体が暖まるまで軽く走り、少しだけ奇声を出す。「ボールにしゃぶりつけ!」という僕が作った、なんの意味もないただのセクハラな名言が体育館の中で空を切る。ここまではいつも通りだった。僕は満面の笑顔だった。その後、事件が起こることも知らずに。

 

試合が始まった。僕はそこそこリバウンドが得意だった。リバウンドとは、シュートして外れたボールをびょんっとジャンプして取って、味方にパスをする行為だ。その日もびょんびょん跳ねていた。

解き放たれた、野うさぎのように。(この描写には、なんの意味も、ない。)

 

そして中盤、またビョンと跳ねて着地をした。そして味方にボールをやろうと振り返った。その時だった。相手と、ラッキースケベをしそうになった(チューしそうになった)。なんとかかわし、俺のトゥルースリーパー級の柔らかな唇を死守した。まるで、強風に煽られる、竹芝のように。

 

そして無事味方にパスをして走り出した。攻めは最大の防御、ここからどんどん点数取る!と思っていた時、相手選手に声をかけられた。

 

「大丈夫ですか?いや、てか全然大丈夫じゃないです!!顔からめちゃくちゃ血が出てますよ。」

 

僕は焦って手を額に当てた。瞬く間に手のひらは紅に染まった。牛丼のそばに佇む、紅生姜のように。

 

すぐに審判の方を向き、「すみません!」と叫んだ。気づかない。「すみません!血が!血が!」パニックだった。それでも気づかなかったので僕は大きく右手を上げ、「見て!血よ!血!!!!!」と叫んだ。

 

千と千尋の神隠し」で坊と対面した時の、千尋のように。

 

その異常な光景に審判は流石に異変を察知し試合を止めた。すぐに救急車が来た(呼ばれるレベルに出てた)。圧迫止血され、病院に行くほどじゃないと判断され、救急車を降ろされた。頭にでかいはんぺんのようなバンドエイドを貼られ、その日は終わった。

 

これだからバスケは辞められないのだ。

「花束のような恋をした」を鑑賞して

※ネタバレを含むので読まれる方はご注意ください。

 

恋愛の現実を目の当たりにさせられた。

 

この映画を見るまで、恋愛映画は「理想と願望が濃縮され、悲しい苦しいシーンはそれを際立たせる背景」だと思っていた。

 

この映画は、その逆。恋愛の悔しさや矛盾、現実的な部分を前面に出し、幸せが背景になる。もちろん、序盤は幸せなシーンが目立った。これから2人の恋愛がどう発展していくのか、ワクワクさせられる。奇跡的とも言える2人の出会いは、まさに運命とさえ思えた。

 

しかし2人で過ごす時間が増えるにつれ、2人にとっての優先順位は少しずつズレ始める。現状維持を行うことが難しくなってくる。2人は猫を飼い始めた。まさかその猫が2人のすれ違いの始まりのシンボルだとは思いもしなかった。

 

あまり話すと長くなるので、残りは感想だけを述べていく。

 

僕は、2人で何をするかとか2人の時間の使い方とか見える範囲のモノに焦点を当てると必ず上手くいかなくなると感じた。うまく行ったとしてもそれは奇跡的な確率で、しかも基本ピークを迎えてしまう。

 

2人の人間がわかり合うことは難しい。しかし同時に、2人は同じ考えを持つことはできると感じた。一言で言うと、「何をするかではなく、なぜそれをするのか。」これを話し合って同じものにしておく必要がある。

 

環境が変わり理想からかけ離れた時ほど、話し合う時間が必要だ。相手を愛することは、相手を理解することではない。相手のモノの見方を理解することだ。それを尊重することだ。好きな相手には当然出来ることだ。

 

相手の見ているモノを見ようとしているかな。

深く考えさせられて2リットルくらい泣いた。

 

いい映画だった。

社会人2年で2回目の転職をする人の話

僕は、チャレンジャーであり続ける。

 

僕は12月に24歳になったばかりのまだまだ人生初心者なのだが、2回目の転職を実行する。

 

就職には結婚と似ている点があると思う。

結婚は決意表明。全ての始まりに過ぎない。

そこから度重なる幸福や試練を、パートナーと肩を組んで乗り越えていく契約である。

 

転職することはいわゆる再婚ということになるのかもしれない。僕は2回目の再婚をすることになるのだろうか。そう考えると、非常にモテる輩ではある。悪い気はしないが、罪悪感も同じくらいある。矛盾という言葉がぴったりである。

 

ただ今回、本当に学んだことは、自分が好きだと信じているものこそ最高なのだということ。

 

1年目に高校教員になり、忙しい毎日の中にも楽しさややりがいを感じていた。生徒のためならどれだけでも頑張れたし、授業は毎回何か新しいものを取り入れようと必死だった。生徒も、必死についてきてくれた。とてもとても、楽しかった。

 

経営に興味を持ち、2年目は塾の経営をした。自分の教育への思いが正しいのかどうかを試す機会が欲しかった。世の中の生徒達のリアルな声を知りたかった。

 

確かに経営を通して学んだことは数多い。どのタイミングで子供を預けようと思えたか、保護者が我々に何を求めているのか、それらを知るきっかけになった。ただ、そのノウハウを僕は教育にフルコミットしたいだけであることを知った。いかにそれをお金に変えるか、とか言葉巧みに人を操り質の低いものを高いもののように見せる、みたいなことにまるで興味がないことに気がついたのだ。

 

人生は一度きりである。できるだけ多くのことを学び、多くのことを伝えていきたい。シンプルにそれだけ。だから、現在進行形で僕は教員をやりたい。小4の時に抱いたこの想いは、24歳になった今も全く変わらず僕の中にある。

 

長くなったが、転職は転職が目的ではない。目的のための手段にすぎない。失うものは数多いかもしれない。しかし、それでも僕はチャレンジャーであり続けたい。環境は変わるがその姿勢は永遠に変わらないだろう。我々は「負けない」ことで勝ち続けることができるのだ。

 

太陽を見続ければ、影を見る瞬間さえも訪れないのである。

新しいものを生み出すとは

誰でもできるんだよな、新しいものを生み出すことは

 

0から1を作れるようになりたいと、オリジナリティとやらを追求したがる人は多い。私もその1人だ。マンネリが嫌いな私は、今までなかったワクワクを言葉で生み出したい。お笑いに強く関心があるのもそこにある。

 

そこで、新しいものを生み出すとは何か。それはズバリ、既存のもの(既にこの世にあるもの)を新しく組み立てること、だと思う。

 

地球が生まれて今まで、地球外から何か持ち込まれたかと言うとそんなことはない。信じがたいことに、我々は昔から地球上にあるものを技術や新しい見方を取り入れることで最先端と言われる時代を捻出してきた。これは紛れもない事実である。

 

これは人間関係でも同じことだ。新しい友達というが、その人が急に現れたわけではない。その人が生まれた時からその人は存在し、出会いという形で新しい組み合わせを体感しているだけなのだ。

 

だからこそ、自分の周りにあるものに私は目を向け、技術はないため新しい角度から物を見たいとおもうのだ。皮肉にも、その新しい角度とやらも昔からある見方なのだろうが。

 

結論を述べる。新しい物を作るなんて簡単だ。オリジナリティが欲しい人は、みんなが持っている物を今までなかった組み合わせで自分のものとして世に出すのだ。そのために、世の中を知らなくてはならない。世の中を知るには人と会話することが重要だ。本を読むことが重要だ。

 

本当に面白い人は、とっても「普通」な人なのかもしれない。